2012年5月10日木曜日

アートマネジメントって、なんだろう?

おはようございます!アートマネージャーの寺澤です。
朝から大爆笑してしまった・・・
東北大学助教授と生徒がくりひろげる、レポート期限あらそいの一部始終です。
どうぞ!

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5/15


理学部物理学教室 浅川

「科学哲学第二」のレポートは、5/31 までに1号館1階の浅川の レターボックスに提出すること。
このレポートを提出しない学生には、単位は出ません。

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6/3


理学部物理学教室 浅川

期限を過ぎて提出されたレポートは、いかなる理由があろうとも 受けつけません。
締切を過ぎてもまだ私のレターボックスに「科 学哲学第二」のレポートを入れる者が居ますが、5/31 の午後 5:00 以降に投函されたレポートは全て破棄しました。

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6/4


理学部物理学教室 浅川

「5/31 まで」と書いたら「5/31 の午後 5:00 まで」の意味です。
こんなことは社会常識です。

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6/5


理学部物理学教室 浅川

他の教官が午後 12:00 まで受けつけていても、関係ありません。
反例を幾つ挙げようと、定量的に述べなければ意味がありません。

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6/8


理学部物理学教室 浅川

なぜその熱意を使い、もっと早くにレポートを作成しないのか理 解に苦しみますが、とりあえず午後 12:00 まで受けつける教官が 過半数であることは理解しました。
よって、6/15 の午後 12:00 まで「科学哲学第二」のレポート提出期限を延長します。

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6/10


理学部物理学教室 浅川

「6/15 午後 12:00 まで」ではなく「6/16 に浅川がレターボック スを開けるまで」ではないか、との意見がありましたが、これら は全く違います。必ず 6/15 中に提出するように。


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6/12


理学部物理学教室 浅川

私のレターボックスに猫の死骸を入れたのは誰ですか。

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6/13


理学部物理学教室 浅川

「私がレターボックスを開けた瞬間に波動関数が収束し、内部状 態が定まるので、レターボックスを開けるまではレポートが提出 されたかどうか分からない」と主張したいことは分かりました。

今回は、提出場所を1号館302の浅川研究室前のレポート提出 用ボックスにします。
この箱は、6/15 午後 12:00 にシュレッダー へと自動的に切り換わるので、シュレーディンガーの猫の問題は発生しません。

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6/16


理学部物理学教室 浅川

いいかげんにしなさい。午後 12:00 は「グリニッジ標準時」では なく「日本標準時」です。
これは常識以前の問題です。

普段は日本時間で生活しているくせに、レポート提出時だけグリ ニッジ時間を求めるなど言語道断です。


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6/18


理学部物理学教室 浅川

信じ難いことですが、「科学哲学第二」を受講する学生の過半数 がグリニッジ標準時で生活していることが分かりました。

夜型にも程があるとは思いますが、とりあえずレポートの提出は6/30 の午後 12:00 GMT まで待ちます。

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6/22


理学部物理学教室 浅川

時間の連続性についての疑義は受けつけません。どうやらベルグソン の時間論を曲解している者がいるようですが、主観的時間がどうあれ、 7/1 の後に 6/30 が来ることはありません。


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「それで、確かに君は 6/30 中にレポートを提出したというんだね?」


浅川助教授は皮肉っぽい口調で生徒に尋ねた。


「ええ、ギリギリでした」


まだ若い学生が無邪気に答える。


「だが、君のレポートは私の手元には無い。君は時間を間違えたのではないかな?」


「いいえ、日に 0.1 秒も狂わない、正確な電波時計を使っていますから。


先生のレポートボックスこそ、時刻を間違えたんじゃないですか?」


「冗談だろう。GPS 補正で ±5 ミリ秒の精度で合わせてある」


「それで、24:00 GMT ちょうどにシュレッダーに切り換わるわけですね?」


「そうだ」


「うーーん。あ、そうだ。多分うるう秒の差ですね」


「うるう秒?」


「ええ。グリニッジ標準時、正確には協定世界時と言いますが、


これは太陽の公転周期から計算する平均太陽時と違い、原子時計によって


計られることになっています。この協定世界時と実際の天文時刻との


差を縮めるため、12/31 や 6/30 などの午後 24:00:00 に、閏年の2月29日


と同様の 1 秒を挿入することがあるんです。いやあ、このうるう秒の


間に僕はレポートを提出して、先生のシュレッダーが動作したんですね。


困っちゃうなあ。学生のレポートはもっと大切に扱ってくださいよ」


学生は目をキラキラさせながら答える。


科学哲学第二のレポートは、まだ集まりそうにない。




東北大学助教授のレポート期限に関するコメントが面白すぎる





・・・すごいですね、これ。
自分たちの知識をフルに使ってレポート期限を延ばそうと画策する生徒たちに、必死に応戦する助教授。
なまじ、自分が教えている分野をついてくるので、「常識」の一言で切り捨てることもできず、レポート期限はずるずると引き延ばされていきます。

本当にこんなやり取りがあったのか、フィクションなのかはよくわかりませんが、こんな先生の授業なら、ぜひ!受けてみたいと思いますよね。

この記事が素晴らしい理由は、私のような科学や物理にうとい人間でも、なんとなく物理って面白そ~と思わせてしまうところです。

波動関数シュレーディンガーの猫、グリニッジ標準時・・・ などなど、専門分野を勉強しないとよく分からないような言葉が出てくるのですが、「レポート期限を延期させる」という目的の元、生徒たちが物理の理論を駆使して先生をやりこめる、というストーリーが面白いので、抵抗なく読んでいってしまいます。
猫の死骸のくだりも、後のシュレーディンガーの猫に続くあたり秀逸ですよね。
(猫好きの寺澤としては、フィクションであると願います)

私も「シュレーディンガーの猫」くらいなら聞いたことがある・・くらいの一般人ですが、「グリニッジ時間」や「波動関数」ってどんなものなんだろうと、ついウィキペディアで調べてしまいました。

そう、物理って本当は面白いものなんですよね。
私は理数系が大の苦手で、高校時代はテストに散々苦労したクチです。
でも、美大に物理の好きな恩師がいたり、個人の趣味としてそういう本を読んだりするうちに、自分の中で数学や物理って面白いものなんだな~と評価が変わっていきました。

そうやって、かつて苦手と意識したものを改めて面白いと評価するのって、なかなか難しいものです。
「物理って難しい」を「物理って面白い」に変えるためには、なにが必要なんでしょうか?
私は、「興味をもつこと」だと思います。

今回の生徒と助教授のやり取りの中で、私はワクワクして専門用語を調べたりしました。
つまり、レポートが関数でどうやって出たり消えたりするんだろう、日本標準時間とグリニッジ時間ってどれくらいちがうの?と「興味」を持ったわけです。
人間なんて勝手なもので、たいていの好き嫌いは自分にとって興味を引くものであるかどうかできまってしまいます。
だから、一度興味を惹かれてしまえば、それは「難しい→面白い」に簡単に変化します。
良い印象を持ってさえいれば、その分野の本や話題がなんとなく目に留まりはじめますよね。
そうやって、人間は自分の好みの中で面白いものから面白いものへと、はしごをかけながら知識を増やし、学んでいくのだと思います。

私が「アートマネジメント」に注目するのは、実はその「興味を惹く」きっかけになると思うから。
一度にがての烙印を押されたら、そう簡単には人間の好き嫌いはひっくり返せません。
でも今回のように、ストーリーをつけて難しいものを面白くしたり、マンガで歴史を解説したり・・・
一般的に難しいとされている専門分野も、視覚や感覚的に面白くすることで簡単にとっつきやすくなるのです。
つまり、アートによって価値を見えるものに変換することができるのではないかと思ったのです。
アートはどのようにも使えます。
それは創造性と柔軟性からくるものです。
私が考えるソーシャルアートとは、「モノの価値を可視化するための変換装置」の役割を担うものです。
物理のように、一見その面白さが「苦手、難しい」といったブラインドで覆われているものも、今回のようにシャレの聞いたストーリーがつくことで「面白さ」が目に見えるものに変化する、こういった目的のためにアートを活用できるのではないか、と考えるわけです。

一般に「アートマネジメント」といわれるものは、アートという曖昧なものを、社会の中で生産的価値を生み出すものにマネジメントするという目的で行われます。
つまり、対象はアートです。
でも、私がたどり着いたアートマネジメントは視点が違っていて、
「アートマネジメント」するのではなく、「アートマネジメント」する、対象はもっと広い、社会そのものです。
社会の海で陸の孤島と化した専門分野、毎年良い企画を行っているのに人が来ない博物館、美味しいコーヒーを出しているけど宣伝するすべを持たずに客が来ない喫茶店・・・
ちょっと興味を持ってもらえさえすれば素晴らしいパフォーマンスを発揮する人・モノ・分野はたくさん存在します。
一見見えにくい価値あるものを、一般の人たちの目に見えやすいよう作り変えてあげる。
この変換装置の役割を果たすことができるのが「ソーシャルアート」なのではないかと思うのです。
アートという曖昧さ、どんなものにも対応できる創造性と柔軟性に、私は社会の架け橋としての可能性を見ています。


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